
エピローグ 夢をみる男
五十日あまりも床に伏していた身体は、随分と筋力が衰えていたし、肌に突き刺すような冬の空気の冷たさにも驚くばかりだが、病み上がりの身体も随分と調子を取り戻したような気がして、空条ホリィは朝から家事に精を出していた。
溜まった洗濯物を片付け、池の鯉に餌をやり、一息ついた所で、ホリィは広々とした日本家屋を隅から隅まで掃除することにした。演奏旅行で海外に出かけている夫が、じきに家に帰ってくるのだ。久しぶりの我が家が綺麗であれば、夫も喜ぶだろう。
まずは一番近い一人息子の部屋からと、掃除用具を携えたホリィが、承太郎、と声をかけるも返事はない。仕方がないので一言断って障子を開けると、息子は畳の上で寝息を立てていた。
母親の命を救うため、世界中を旅しながら死闘を繰り広げ、無事に戻ってきた息子は、一回りも二回りも大きく成長していたが、帰ってきてからというもの、随分と眠っている時間が多くなったような気がする。
息子も父親も、ホリィを心配させまいとしてか、旅の間の話は、ぽつりぽつりとしか話してくれなった。辛いことも多くあったが、楽しい旅であったと二人は言ったが、ホリィはあの秋の日に出会った褐色の肌の異人や、息子が連れてきた少年のことが気にかかって仕方がなかった。
「モハメド・アヴドゥル」は、エジプトで行方不明になったと聞いていた。そして自分が目覚めた日に、エジプトで亡くなったと報道された日本人の少年の名前は、確かに「花京院典明」であった。誰も何も言わなかったし、ホリィもあえて聞かなかったが、めずらしいその名前は、息子が家に運び込み、ホリィが介抱した少年と全く同じだ。
「……承太郎」
承太郎はホリィの呼びかけにも反応せず、年相応の幼い顔で穏やかに眠っている。普段は常に眉間に深い皺を刻み、何者も寄せ付けない孤高の雰囲気を纏う息子が、眠っている時だけは幸せそうな満ち足りた表情でいるのに、ホリィは気づいていた。
きっと何か良い夢を見ているのだろう、そう思ってホリィはそれ以上声をかけず、そっと障子を閉めた。ちらりと見えた息子の掌の中には、さくらんぼのような、キラキラ輝く赤く丸い宝石が二つ大切そうに握られていた。
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