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「今度の休みに少し遠出しねえか」

 

と問いかける承太郎の声が、心なしかいつもより硬いので、花京院はおやっと目を瞬かせた。

 

「うん、いいよ。どこへ行くんだい」

 

表面にびっしりと汗をかいた、飲みかけのアイスコーヒーを机に置き花京院が尋ねると、彼の恋人は旅行雑誌のとあるページを開いて見せた。

 

「この水族館の横に、新しいホテルができたんだ」

 

坂の上にあるから海も見えるし、折角だから一泊しようぜという承太郎に、花京院は珍しいこともあるのだな、と思った。

 

なぜなら、承太郎はその獣のような風貌に似合わず割とインドア派で、休日はもっぱら恋人である花京院と一緒に、家でゆっくりするのを好んでいるからだ。

まあでも偶にはこういうのもいいな、と花京院は旅行雑誌の水族館の特集ページをぱらぱらと捲った。

 

「すごく綺麗な水族館だねえ、イルカのショーもあるみたいだし」

 

人気そうだけどホテルの予約は大丈夫なのかい、と花京院が尋ねると、承太郎はこくりと頷き、もう予約している、と答えた。

 

だから花京院は、随分と準備がいいな、自分が断ったらどうするつもりだったのだろう、と少し疑問に思いながらも、恋人が海洋生物の研究者になろうとしていることを知っていたので、よっぽど興味があって行きたかったのだな、と納得し、承太郎の頬が照れくさそうに赤く染まっていることには、全く気がつかなかったのだった。

 

 

 

 

旅行当日、花京院が一人暮らしをしているアパートの前まで承太郎が車で迎えに来たとき、花京院は再びおやっ

と目を瞬かせた。

冬生まれのせいか、夏の間はいつもタンクトップで暑い暑い、と言っている承太郎が、今日に限ってはカチッとしたスーツに身を包んでいた。

旅の間、ほとんど取ることのなかったトレードマークの帽子も、今はしていない。

 

「ど、どうしたんだい承太郎」

 

ちぃっとな、と承太郎は言って、花京院の荷物を車へとしまっている。

 

「ぼく、普通の格好で来ちゃったよ…もしかしてそのホテル、ドレスコードがあるのかい」

 

水色の半袖のシャツに、動きやすそうな綿のパンツを合わせた花京院は、旅行に行くという楽しい気持ちも吹き飛んで、おろおろし始めた。

しかし承太郎は、いいんだ、おれがしてえだけだから、と言ったきり、運転席に身を滑り込ませてしまうから、花京院は困ってしまった。

 

(どういうことなんだろう、水族館で遊ぶのにスーツが必要って…)

 

花京院は混乱しながらも助手席に乗り込んだが、ドライブの間中ぐるぐると考えを巡らせるのに忙しく、カーラジオから流れる彼の好きな歌手の新曲も、全く意識に上らなかった。

 

 

 

 

流れるようなしばしの運転ののちに、ここだ、と承太郎に言われて車から降りて、花京院は息を飲んだ。

 

「な、何これ…」

 

花京院の目の前にそびえ立つのは、まるで絵本の世界から飛び出てきたような、宮殿とみまごうほどのホテルだった。

噴水のある広大な庭を、孔雀が優雅に歩いている。

 

あんぐりと口を開けたままの花京院を気にせず、承太郎はドアマンと何事かを話しながらホテルの中へ入っていってしまう。

花京院は小走りでそれについていきながら、嫌な予想で頭がいっぱいになっていた。

 

普段、家でぼくとダラダラしつつ、カウチで映画を見るのが好きな承太郎が、堅苦しいことが大嫌いな承太郎が、こんな凄いホテルに一泊するなんて、絶対に何かある。

何かとはなんだろう、と考えると、別れ話じゃあないのか、と花京院は思いあたったのだ。

 

優しい彼は、最後にぼくに思い出をくれようとしているのではないのか、ものすごいレストランで、フルコースの最後のデザートをコーヒで流し込みながら、彼はきっと言うんだろう。

花京院、おれたちもう終わりにしようぜって。

 

そう考えると、花京院の胸は締め付けられたようにぎゅう、と痛んだ。

身体が重く、息苦しくて、腹の中に石を詰め込まれた童話の狼のような気持ちだ。

 

「花京院、チェックインは2時からみてえだから、荷物だけ預けて先に水族館に行こうぜ」

 

な、と承太郎に手を取られ、花京院はびくりと体を震わせた。

どうした、と顔を覗き込んでくる承太郎に、なんとかああ、と答えながら、花京院は上手く動かない自分の足を叱咤したのだった。

 

 

 

 

水族館は休日ということもあってか、カップルや親子連れで賑わっていたが、はしゃぐ群衆とは裏腹に、花京院の心はどこか浮かないままだった。

綺麗な熱帯魚を見ても、ゆうゆうと大きな水槽の中を泳ぐエイや、イルカやアザラシのショーを見ても、貼り付けたような笑顔の裏で、花京院は今にも泣き出してしまいそうだった。

子供のようにはしゃぎ、花京院の手を引いて館内を案内する承太郎の優しさが、今の花京院には辛かったのだ。

 

散々歩き回って日も傾きかけたころ、承太郎は腹が減っただろう、と花京院をホテルのレストランに連れて行った。

黒い蝶ネクタイをつけたスタッフが、恭しく奥まった個室へ二人を案内したとき、花京院の心臓はドクドクと鼓動を速め、スッと自然な動作で引かれた椅子に座らなければ倒れてしまいそうだった。

 

清潔そうなクロスのかかったテーブルには、小さな花瓶に入れられた深紅のバラが飾られていて、その隣に置かれたろうそくの揺れる炎のように落ち着かない心のまま、花京院はじっと膝の上で握られた自分の拳を見た。

承太郎がすらすらと高級そうな名前のワインを注文し終わるのを待って、花京院は重い口を開いた。

 

「承太郎、今日はありがとう」

 

最高の日だった、と震える声で告げれば、承太郎は嬉しそうに笑った。

しかしその笑顔は、花京院の次の一言で消し飛んだのだ。

 

「ぼ、ぼく、のこと、嫌いに、なったんだろう…でも、ぼく、別れ、ったくない…」

 

ひっ、と息を吸うと、花京院の瞼の裏は燃えるように熱くなった。

ぽたりぽたりと涙がこぼれて、テーブルクロスに吸い込まれていく。

 

「ごめ、ごめんなさいっ…がんばる、から、す、捨てないで…」

 

みっともない、と花京院は思った。

先ほどまでは、笑って綺麗に別れようと思っていたのに、このざまだ。

彼のにぎりしめた拳は血の気を失い、真っ白になっている。

胸も喉も目も、ひりひりと焼き付いたように痛む。

 

おねがい、じょうたろう、と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら花京院が顔を上げると、そこには馬鹿みたいに口を大きく開けた承太郎がいた。

 

途端、ふっとレストランの照明が落ち、今までの落ち着いたクラシックとは打って変わって明るい音楽が流れ出した。

 

「お誕生日、おめでとうございます!」

 

にこにこと満面の笑みを浮かべたウェイトレスが、びっくりするほど大きな生クリームのホールケーキを運んでくる。

同時にドン、ドン、と窓の外で大きな音が鳴り、驚いて花京院が外を見やると大輪の花火が打ちあがっている。

 

「え」

 

パチパチとスタッフ全員の拍手に包まれ、なに、なんなんだい、と涙も引っ込んでうろたえる花京院の目の前に、ろうそくがいっぱい立ったケーキが置かれた。

チョコレートには、流れるような文字でHappy Birthday Noriakiと書かれていた。

 

「花京院、お前今日誕生日だろう」

 

承太郎に乞われ、花京院は何が何だかわからぬまま炎を吹き消した。

 

「忘れてやがったのか…」

 

どうりで旅行に誘った時、きょとんとしてたんだな、と承太郎は呆れたようにため息をついた。

 

「おれが別れ話なんか、するわきゃねえだろう」

 

ひくっと肩を震わせて、花京院は承太郎を見つめた。

 

「じゃ、じゃあ、ぼく、まだ君と一緒にいられるの」

「あたりまえじゃあねえか」

 

一生離すつもりはねえ、と承太郎は獣のように瞳をきらりと閃かせた。

いつの間にか先ほどまで場を盛り上げていたスタッフたちは姿を消していて、辺りには二人しかいない。

 

「あとで渡すつもりだったんだがな」

 

ほらよ、と承太郎が無造作にテーブルの上に置いたのは、小さな宝石箱だった。

おそるおそるそれを受け取った花京院が蓋を開くと、中にあったのはプラチナの台座にエメラルドがはめ込まれた指輪だった。

 

「誕生日おめでとう、花京院。おれとおそろいだぜ」

 

そういって彼はもう一つ宝石箱を取り出して、中身を開けて見せた。

そこには花京院が持っているものより、一回りほどサイズの大きな、しかし全く同じデザインの指輪が入っていた。

 

飯食ったら、上に部屋を取ってあるから今日は寝かせねえ、覚悟しとけと笑う承太郎につられて、今までの悲しい気持ちも吹き飛んだ花京院は、涙で真っ赤になった瞳を細めて、うんと嬉しそうに笑ったのだった。

 

おしまい

 

 

 

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