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注意:原作ネタバレ

夢でしか会えない承花の話

 

 

「明晰夢」という言葉がある。

自分でああ、これは夢だと自覚しながら見る夢のことをいうのだが、おれがいつも自分が夢を見ているな、と理解する瞬間は花京院典明の姿を見たときである。

なぜなら彼はもうこの世におらず、おれが彼に会うことを許されるのは、今は夢の中だけだからだ。

 

 

「承太郎」と、おれに話しかける花京院の声は、年々とおくなっていく気がする。

人が一番最初に忘れてしまうのは、その人の声だと聞いたことがあるが、そのせいなのかもしれない。

ゆるく巻かれた赤毛を揺らし、あの頃と全く変わらない姿の花京院がおれを覗き込んでいる。

 

ああ、また夢を見ているのだ、とすぐに理解するも、おれができることはおれが夢の中で作り上げた花京院の幻に曖昧な笑みを向けながら、この時間が少しでも長く続くことを祈るだけだ。

 

「随分とお疲れのようだね、隈が浮かんでいるよ」

 

彼のほっそりとした指先が、優しくおれの目の下をなぞる。

そのやわらかな指の感触に、おれは涙がこぼれてしまわぬように強く目をつむった。

 

「また、無理をしているんだろう。君は色々と一人で抱え込みすぎる」

 

最強のスタンド使い空条承太郎、と花京院がぽつりと漏らす。

 

「ぼくも昔はそうだったけど…みんな、君に憧れる。君をヒーローにしたがる」

 

花京院がおれの顔を両手で包み込み、こつんと鼻をぶつけながら話しかける。

随分と近くに感じる彼の吐息に、そっと目をあけると、花京院が悲しげに眉を寄せておれを見つめている。

 

「でもヒーローである君自身の願いは誰が叶えてくれるんだろう?ぼくはそれが気がかりなんだよ。承太郎」

 

薄く横に広い彼の唇が、そっとおれの頬に落とされた。

少しかさついた彼の唇は、確かに温度とやわらかさを持っていて、おれの胸を狂おしく焦がしていく。

花京院、と呼びかけるおれの声は、自分でも驚くほど情けなく震えていた。

 

年々、夢の中で彼に会える頻度は落ちていた。

次はいつ花京院に会えるかわからない恐怖に、おれは怯えて目の前の彼を強く抱きしめる。

 

「花京院、花京院。お前に話したいことがいっぱいある。お前に見せたいものも、お前に会わせたい奴も、お前に……いや、お前と……おれは……」

 

鼻の奥がツンと痛み、瞼が燃えてしまいそうに熱い。

みるみるうちに涙の膜がおれの視界を覆っていく。

久しぶりに見ることのできた花京院の顔が、滲んでいってしまう。

とぎれとぎれの言葉の最後は、意味をなさずにぽろぽろと崩れて、ただの音の組合せにしかならない。

 

「承太郎、わかっているよ。大丈夫、安心してくれ…」

 

そっと彼の温かな掌がおれの背を撫で、その心地よさに胸の奥が痛む。

涙が次から次へと溢れ、花京院の深緑の制服の色を更に濃くしていく。

 

「わかっている、ぼくはいつも君の側にいる…君は気づいていないかもしれないけど、ぼくはちゃあんと君を見ているよ…君が頑張っていること、いつも一人で戦っていることも全部、全部知っているよ…」

 

子供にするようにおれをあやす幻想の花京院は、記憶の彼よりもよくしゃべる。

彼にあの旅のころのように気安く話しかけてほしい、というおれの願望がそうさせているのだろう。

 

だが、幻でもいい、嘘でもいい。

花京院に会いたい、花京院の存在を感じたい、優しくおれを抱きしめて声を聞かせてほしい。

彼の声を、彼のぬくもりを、彼の匂いを、あのやわらかな髪を、きちりと着こんだ重たそうな制服を、五感の全てで確かめたい。

 

エジプトの空気のせいか少し埃っぽい、しかし甘い花の蜜のような彼の香りを肺いっぱいに吸い込んでいると、どこかからけたたましいベルの音がする。

段々と大きくなっていくその音が何だか、おれは知っている。

それは夢の終わりを告げる音だ。

 

そろそろ行かなくちゃ、と花京院は寂しそうに言う。

 

「さよなら、承太郎」

 

まだこっちに来ちゃあ駄目だぞ、と呟く彼の体がどんどん透けていく。

 

「いやだ、おれを置いて行くな!花京院!」

 

離れていく花京院をつなぎとめようと、必死になって手を伸ばし、日常生活の中でほとんど外すことのない気に入りの帽子がどこかへ飛んでいくのも構わず、おれは花京院の名を叫び続けた。

 

 

 

 

眩しい朝の光に目をあけるとジリリリ、と時計が煩わしい音を立てており、おれはむしゃくしゃして叩きつけるようにして、アラームを止めた。

せっかく花京院に会えたのに……目ざましなどかけるべきではなかった。

 

彼はいつもきまっておれが忙しい時、必ず朝早くに起きなければいけない時にやってきて、少しの間しか一緒に居てくれない。

しかし、それはあまりおれがそちら側にどっぷりと浸かることがないようにとの、花京院なりの配慮なのかもしれなかった。

 

結婚し娘も生まれ、おれには大切なもの、守らなければいけないものがどんどん増えていく。

辛くても、苦しくても、泣きだしそうになっても前を向いておれは進まねばなるまい。

それがあの旅でおれに希望を託し、死んでいった花京院へのはなむけになるのだろう。

 

おれは涙をふき、ぎゅっと歯を食いしばると、今日もまた生きていくことを、この命が果てるまでやりきることを、彼に誓うのだった。

 

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