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注意:暴力表現あり(殴る、蹴る、ナイフを持ち出す等)

花京院がクラスメイトにいじめられている話

 

 

 

-1-

 

俺が花京院典明を初めて見たのは、ある秋の日の昼下がりのことだった。

 

その時間は、俺の大嫌いな教師が古文の講義をやっている筈だった。

というのは、俺が堂々と授業をサボっていたためで、本当に講義が行われているかどうかはわからなかったからである。

 

今は葉ばかりの桜の木の下で、寝転がりながら本を読んでいると、見たことのない赤毛の男が、ずぶ濡れの制服のまま、焼却炉から灰まみれの机を引っ張り出そうとしていた。

その姿を見て、彼がいじめを受けているということは容易に想像がついたし、俺のとは違う深緑色の制服から、どこかから転校してきたのだろうと推測された。

 

目立つ赤茶色の頭髪や、長く改造された学ラン、ふざけたチェリーのピアスから、彼はいわゆる不良というものに分類されるのだろう。

誰かに目をつけられるのも当然のことだと俺は思った。

 

常ならば、そんな男一人気に留めることもないのだが、彼があまりにも淡々としており、その顔に何の表情も浮かんでいないのが、心にひっかかった。

 

俺は自分でも何故だかわからないが、すたすた歩き出すと彼の隣に立ち、長い体を折り曲げて、焼却炉から机を取り出す作業を手伝っていた。

無言で側に寄ってきた俺に、彼は驚いたようだったが、俺のせんとするところを理解すると、涼やかな声でありがとうございますと礼を言った。

その声を聞いて、俺は彼に対して、不良というよりは、才気あふれる優等生のような印象を受けた。

 

焼却炉の中は真っ暗でよく見えず、机はかなり奥の方で横に倒れているようだ。

げほげほと咳き込みながら、なんとか引っ張りだすと、二人とも塵と埃でひどい有り様になっていた。

 

彼はどうもすみません、と言うとポケットから、きちんと折り畳まれたハンカチを2枚取り出した。

その1枚を俺に手渡し、もう1枚で几帳面そうに机の天板を拭く。

それから彼は、困ったような曖昧な頬笑みを浮かべて会釈すると、机を持って校舎の方へ歩き出した。

 

俺はその後ろ姿に思わず声をかけていた。

 

「おい」

「なんですか?」

 

灰で汚れてなお、彼は凛とした清潔感があった。

 

「戻るのか」

「…ええ、まあ。もう授業も終わりかけですけど」

 

よくみると、口が真横に大きいのを除けば、彼の顔はとてもよく整っていた。

 

「風邪引くぞ」

 

と自分の来ていた制服の上を脱いで渡すと、彼は目を伏せた。

彼の服はぐっしょりと濡れて色を濃くしており、髪からは時折ぽたりと滴が落ちた。

 

少しの沈黙の後、やはり寒かったのだろう、彼は自分の学ランを脱ぐと俺から制服を受け取った。

細身の彼が肩に羽織ると、俺の制服はかなり大きく見える。

 

「…すみません。あの、お名前と住所を教えて下さい。クリーニングして返しに行きますから」

「いや、別に気にするな。」

「いえ、そういうわけにはいきません。僕の気が済まないので」

 

その口調は穏やかではあったが、俺がなんと言おうと彼の意志は曲がりそうになかった。

仕方なく俺はポケットからメモとペンをとりだすと、名前と住所を書いて彼に渡した。

彼はしげしげと俺の字を眺め、それから何と読むのかと聞いてきたので、俺は自分の名前の上に読み仮名を振ってやった。

 

くうじょう、じょうたろう。と彼は口に出して響きを確かめ、丁寧にメモを折りたたむと、濡れないようにと財布にしまった。

 

「僕は花京院典明、先週転校してきたばかりです」

 

ずいぶんと雅やかな名前だな、と俺は思った。

この辺りでは聞いたことのない名字であるので、彼はかなり遠くから越してきたのかもしれない。

 

少し時間はかかると思いますが、制服は絶対お返しするので、と頭を下げる花京院に、俺は予備があるからいつでもいいと言って、校舎へ戻っていく彼の背中をいつまでも見つめていた。

彼に一緒に付いていって、授業に戻ろうとは思わなかった。

 

俺はいやに口さみしく感じ、タバコを吸おうとして、そういえばさっき花京院に渡した制服に、タバコとライターを入れたままだったことを思い出した。

やれやれだぜ、と呟いて木陰に寝転んでも眠気などは一向に襲ってこず、頭を占めるのはさっき会ったばかりの男のことだった。

 

たった一週間しか共に生活していない花京院に水を浴びせ、机をわざわざ焼却炉に捨てるほどの理由とは何だろう。

しかも、おそらくその行為は昼休みの間に行われたのだ。

彼の制服はほとんど乾いていなかったし、机がないのに午前中の授業を受けられたとは思えない。

教師にばれる危険を顧みず、少し外見が派手なくらいで、そこまでやるだろうか。

彼は何かクラスメートの反感を買うようなことをしたのだろうか。

 

短い時間ではあったが、俺は彼から特に変わった印象も受けなかった。

几帳面で神経質そうだなとは思ったが、いじめられるような理由は見当たらなかった。

 

うだうだと思考を巡らせてみても、結局答えは出ず、俺は考えるのをやめた。

古文の講義の終了を告げるチャイムを聞いてから、俺はゆっくりと校舎へと戻った。

 

 

 

 

 

昼休みにトイレに向かった僕は、そこに数名の男女の姿を見つけるとげんなりした。

彼らは僕が転校してきた次の日から、まるでおもちゃのように僕を殴ったり蹴ったりしていた。

 

にやにやと笑いながら、こちらを見ている彼らの横を、僕は無言で通り過ぎようとしたが、それは突然の腹への殴打でかなわなかった。

よろめいた僕は、無理矢理トイレの個室に突っ込まれ、便座に倒れかかった。

なんとか起き上がり、個室から出ようとするものの、ドアは外側からふさがれ、とうてい開きそうにない。

仕方ない、上から出よう、と僕は靴を脱いで便座に立った。

 

その時、頭上から文字通りバケツをひっくり返したような水が降ってきた。

 

僕は一瞬何が起こったかわからなかった。

顔の水を手でぬぐい、ぷは、と息をつくと第2波がきた。

間髪をおかずに第3波、4波も続き、僕は数えるのをやめた。

 

水は僕の全身を濡らし、僕から体温と抵抗する気力を奪った。

滝に打たれる修行僧のようになった僕は悟りの境地に達し、僕をいじめる彼らに同情さえ覚えた。

 

ドアの向こう側からは、けたたましい女子の笑い声が聞こえる。

得意になった男子が、僕に罵倒を浴びせているようだったが、あいにくと僕の耳はその音声をシャットダウンしていた。

 

無限にも感じられる時間が過ぎ去ったあと、昼休みの終了を知らせる鐘が鳴り、いじめっ子たちは教室に戻ったらしかった。

僕はトイレの個室から出ると、転がっていたバケツを用具入れへ戻し、のろのろと教室に向かった。

 

ひょろりとしたもやしのような数学教師は、水死体のような僕を見てぎょっとした顔をした。

教師はどもりながら、僕にどうして授業に遅れたかを聞いた。

僕はちょっとプールに落ちまして、と陳腐な嘘をつき、教師はそれで納得したらしかった。

 

さて、と窓際の自分の席に向かうと、はたしてそこに僕の席はなかった。

牛乳まみれになったイスだけがぽつんと残され、机と僕の鞄はどこかへ消えていた。

やれやれ。

 

数学教師は蒼白な顔で、早く席へ座れと僕にせっついた。

僕はなるべく丁寧な言葉で、自分の机がないこと、座りたくてもイスが汚れていることを説明し、机を持ってくるために授業を抜けることを許してほしいと伝えた。

教師は了解した。

 

僕はクラスの誰とも目を合わせず、昼下がりの教室を出た。

 

僕の引っ越してきたこの街は、急速に人口が増えたらしく、したがって校舎に空き教室というものは存在しなかった。

つまるところ、適当な机はすぐに見つかりそうもなかった。

 

僕は人目がないことを確認してから、緑の分身を呼び出した。

ハイエロファントグリーンと呼んでいる、僕の唯一の友達である彼は、僕のヒーローでもあった。

 

校舎の隅々までハイエロの触手を這わせると、どうやら机は焼却炉の中らしい。

鞄は僕の下駄箱の中に、靴と共にカッターで切り刻まれ、無残な姿で身を横たえているようだ。

とりあえず僕は机を救助しに行くことにした。

 

焼却炉の側の木陰では授業中だというのに、大柄な男子学生が寝そべりながら本を読んでいる。

学ランは改造されているし、ボタンは一つも留めてないし、どうみても不良だな、友達いないんだろうな、と僕は思った。

 

ハイエロを汚したくなくて、一人でごそごそと焼却炉から机を取り出そうと格闘していると、いつの間にか不良が横に立っていた。

ぎゃ、と叫び出しそうになったが、どうやら僕を手伝ってくれる気らしい。

ありがとうございます、と礼を言うと、彼は「ん」と呟いた。

灰まみれになるのも構わず、不良は机を取り出してくれた。

 

申し訳なくてハンカチを渡すと、彼はそれを使わずに手でぱたぱたとホコリを払い、じっと僕を見ていた。

その視線が怖くて、机を持って早々に立ち去ろうとすると、不良に急に話しかけられた。

 

「戻るのか」

「…ええ、まあ。もう授業も終わりかけですけど」

 

風邪ひくぞ、と不良はずぶぬれの僕に学ランを貸してくれた。

なんていい奴なんだろう。

不良じゃないな、神様だな、と僕は思った。

 

良く見ると彼はずいぶんと整った顔をしていた。

そして瞳は僕の好きな緑色だった。

 

彼の名前は空条承太郎というらしい。

僕は彼に必ず制服を返すと約束し、そしてなんだか勇気がわいてきて、地獄のような教室にも強い気持ちで戻っていけたのだった。

 

 

 

-2-

 

僕はいつも想像する。

ハイエロファントグリーンを使って、クラスを襲う場面を。

見えない何かによって、空中に吊り上げられ、恐怖の表情を浮かべるクラスメイトや、操り人形のように不気味な動きで生徒を万年筆で刺す教師の隣で、1人窓際で文庫本を読んでいる自分を空想する。

 

それが叶ったら、世の中はどんなにか色鮮やかになるだろう。

だがその妄想を実行に移すことは恐らくないだろう。

怖いわけではなく、僕の唯一の友人にそんなことをさせるのは恥ずべきことだと思うからだ。

 

僕は寒さに震え、歯をガチガチならしながら、教室へと続く階段の前で心が折れそうになっていた。

行きは良かったのだが、ずぶ濡れの体で机を持って3階の僕の教室まであがることは困難に思われた。

幅の細い階段を、落ちないように一歩ずつ慎重に昇りながら、このあと授業を受けるなど、とてもできそうにない、机を戻したら帰ろう、と僕は考えていた。

 

なんとか3階にたどり着き、よろけながら教室の扉を開けると、一斉に視線が僕に集中した。

いや、もっと詳しく言うと、僕の羽織っている借り物の学生服に集中したようだった。

なんだなんだ、ブカブカで似合わないとでもいいたいのか。

 

教室はざわざわと落ち着かない空気に包まれ、所々から「空条」とか「ジョジョ」といった単語が聞こえた。

僕は誰とも口をきかず、机を僕の席に戻し、椅子にかけられた牛乳をハンカチでさっと拭くと、足早に教室を去った。

 

後ろの方で、教師がどもりながら、「花京院、帰るのか」とかなんとか言っていたが、僕は振り向きもしなかった。

 

ロッカーの中の外靴には、ご丁寧に画鋲が仕込まれていて僕は悲鳴をあげた。

家までの帰り道を、いつもの倍くらいの時間をかけてのろのろ帰ると、僕は学生服を脱ぎ、ほぼ意識のない状態でシャワーを浴び、そして倒れるように寝込んでしまった。

 

 

 

次の日、僕はベッドから全く起き上がれなかった。

大丈夫なの?と尋ねてくる母親に返した声は、ガラガラに掠れ老人のようだった。

体温計は39度を示し、母親は学校に休みって言っておくわ、と顔をしかめた。

 

そのまま薄情にも部屋を出ていきそうな母親に、僕はなんとか筆談で、空条承太郎の制服をクリーニングにだしてほしいことを伝えた。

母親はどうして僕が他人の制服を預かっているのか、訝しげに思ったようだが、我が家の教育方針は不干渉なので、特に聞かれはしなかった。

僕は生まれて初めて母親の無関心さに感謝した。

 

高熱でもうろうとする意識の中で、僕はなぜだか空条のことを思い出していた。

あの、宝石を埋め込んだようなきれいな緑の瞳は、どうやったら作れるんだろう。

エメラルドのようなきらきらした緑色、神様の最高傑作だな…

 

そのまま僕は3日間眠り込んでしまった。

 

 

 

3日後、喉は痛いし咳もでるが、僕は無理矢理学校に向かった。

空条に会えるかもしれないと、彼の制服を持ってきたので、大荷物だ。

 

今日ばかりは、僕はクラスメイトに暴力を受けたら、ハイエロを使おう、と考えていた。

どれほど困難な目に遭っても、反撃にハイエロを使わないという僕の矜持のせいで、空条の制服が傷つけられたらさすがに申し訳が立たない。

 

しかし、その日を僕は何事もなく過ごすことができた。

別に風邪で苦しんでいる僕を、いじめっ子たちが哀れに思ったわけではなさそうだった。

その証拠に、彼らの中心的存在である女子生徒が、一日中僕を睨んでいた。

 

そう、その女子生徒こそ僕がこのように迫害されるようになった原因だった。

 

転校初日、僕は彼女に告白された。

なんでも一目ぼれしたとか運命がどうとか、彼女は自信たっぷりに僕に話しかけてきた。

僕がそれを丁重にお断りすると、彼女は急に長くウェーブのかかった茶色い髪を振り回しながら、ヒステリックに叫び出し、僕のすねを思い切り蹴とばすと、どこかへ走り去ってしまった。

 

後日知ったのだが、彼女はクラスで一番かわいいと言われているらしく、今まで袖にした男は数知れず、まさか自分の告白が撥ね退けられるとは思っていなかったようだった。

 

次の日、教室に入ると僕はまず後ろから飛び蹴りを食らった。

強い衝撃を受けた背中は燃えるように熱く、僕は何が起こったかわからないまま、床に倒れ込んだ。

 

一房長い髪の毛を乱暴にひっぱりあげられて顔を上げると、昨日僕に告白してきた彼女が、憎しみをたたえてそこにいた。

僕が驚きで目を見開くと彼女に思い切り頬を張られ、叩かれた場所がじんと痺れた。

彼女は、とげとげしい声で、このホモ野郎と僕を罵った。

 

直後に横から男子生徒が僕の腹をけり上げ、僕は教壇にぶつかり強かに頭を打った。

視界がぐらぐらと回転し、胃液が喉までせりあがる。

 

どうやら彼女は学校のマドンナ的存在で、彼女にあこがれる男子生徒を始終付き従えているようだ。

ぐう、とうめき声を上げると別の男子生徒が面白がって更に追撃を加えた。

僕の額からつう、と生温かい血が流れ、何人かの女子生徒が悲鳴を上げたが、とりまきの一人が一喝するとすぐに沈黙が流れた。

 

僕は教師がやってくるまで、ボクサーの前のサンドバックのように打たれ続けたのだった。

 

いけない、いけない、思考がまたマイナスに傾いてしまった。

辛いことはすぐに忘れるに限る。

 

僕は頭を振って、1週間ほど前の嫌な記憶を追い出した。

昼休みに焼却炉まで行ってみたが、空条に会えなかった僕は、放課後を告げるチャイムを聞くと、すぐに教室を飛び出して彼の家へと向かった。

 

メモに書かれた住所に向かうと、僕は自分の目を疑った。

そこには、広々とした敷地を贅沢に使った古風な日本家屋が鎮座していた。

何かの歴史建造物かな、と僕は考えたが、門にははっきりと空條と書かれている。

 

僕は知らず知らず、ごくりと唾を飲み込んでいた。

や…やのつく自由業の方なのかな。

どうやら僕はとんでもない人に制服を借りてしまったみたいだ、生きて帰れますように、と祈りながら突っ立っていると、突然

 

「おい」

 

と僕は背後から声をかけられた。

あまりの衝撃に、ぴゃっと変な声を出しながら飛びあがると、声をかけた本人もびっくりしたらしく、驚いた低い声が聞こえた。

おそるおそる振り返ると、僕より頭一つ高い位置に、あの美しいエメラルドの瞳があった。

 

僕は完全にパニックになってしまい、しどろもどろになりながら、制服を返しに来たことを伝えた。

空条はふむ、と納得すると、とりあえずあがれよ、と僕を恐ろしく荘厳な建物の中へと招いた。

僕は及び腰になりながら、いえ結構です、と呟いたが完全に無視され、なかば引きずられるように彼の家へと連れ込まれた。

 

 

 

カコン、と鹿威しの涼やかな音と共に、空条は水滴の浮いた麦茶を運んできた。

いちいち部屋に入る時に、頭がぶつからないように体をかがめるしぐさが、少し僕の緊張をほぐした。

 

「本当にありがとうございました」

 

と深々と頭を下げながら、僕は綺麗にクリーニングされた制服と、ついでにポケットに入っていたらしいタバコとライターを彼に渡した。

彼は規格外の大きさの制服を受け取ると、

 

「あの後大丈夫だったのか?」

 

と尋ねてきた。

 

はて、どう答えたものか。

あんまり僕がいじめられていることが広まると、他のクラスの人からもやられるかもしれないしなあ…

 

「いえ、風邪をひきまして3日ほど学校を休みました」

「そりゃあ大変だったな」

 

空条は気ぃつけろよ、と呟くとそれきり黙りこみ、それ以上聞いてこなかった。

彼も、あの状況から僕がいじめられていることは丸わかりだろうに、気を遣ってくれているのだろう。

 

不思議と空条との間の沈黙は、あまり苦にならなかった。

彼はその大きな体躯に似合わず、その存在はひっそりと静かで、この空間にうまく調和しているというような感じだった。

 

僕はなんとなく彼に自分のことを知ってもらいたい、と思った。

そんな風に思ったのは、はじめてのことだった。

 

「どうして僕がずぶ濡れだったか、聞かないんですか」

 

と尋ねると、空条はちらりと僕の方を見た。

 

「聞いてほしいのか」

「ええまあ」

 

空条はじゃあ、と言ってどうしてずぶ濡れだったのか僕に聞いた。

僕は自分が親の都合で引っ越してきたこと、転校一日目に女の子に告白され、断ったら次の日からいじめが始まったことを、なるべく簡潔にかいつまんで話した。

空条は、ときおり長い睫毛を震わせて瞬きしながら、僕の話を最後まで聞いた後に、

 

「辛かったな」

 

とぽつり呟いた。

 

僕はいえ、別に大したことじゃあありません、と言うつもりだったのに、彼の声があまりに優しかったために、ぽろりと涙をこぼしてしまった。

 

あれ、まずい、と思うのに、涙は次々とわいてきて、瞼がじわじわと熱を帯びだした。

その熱さに目を開けていられなくって、僕は強く目をつぶった。

瞼の熱はあっという間に全身に広がり、肩が勝手に震え、堪えきれない嗚咽が漏れた。

ほどなくして僕は子供のように顔をぐしゃぐしゃにして、ぼろぼろ大粒の涙をこぼしていた。

 

空条承太郎は、黙って大きな手で僕の背中をなでてくれていた。

泣き疲れて彼にもたれて眠ってしまう少し前に、僕は空条の手のぬくもりに、上手く言葉にできない、強いて言うなら郷愁のようなものを感じていた。

 

 

 

-3-

 

かすかに薫るタバコの匂いに目を覚ますと、縁側の方から煙が薄くたなびいていた。

ぼんやりと働かない頭のまま起き上がると、僕は自分が布団に寝かせられていることに気づいた。

 

そうだ、空条の家にやって来て、制服を返して…なんだかとても恥ずかしいことに、僕は彼にもたれて眠ってしまったらしかった。

 

のろのろと起き上がり紫煙をたどると、空条がタバコをくわえながら気だるげに庭を見つめていた。

きし、と僕に踏みしめられた板が鳴る音に、空条は視線を僕に向けた。

 

「起きたか」

 

まだ随分と長さの残るタバコを灰皿に押し付け、彼は僕を隣に招いた。

逆らわずに腰を下ろすと、澄んだ美しい緑の瞳が、僕を覗きこんでくる。

 

「少し寝たら、具合良くなったか?」

 

きらきらと星をちりばめたようなその瞳に、僕の心臓は何故だか鼓動を早めた。

 

「ええ、あの、本当にすみません。取り乱してしまって」

 

彼の芸術品のような顔を直視できずに俯きながら答えると、空条の大きな手がくしゃりと僕の髪をなでた。

 

「困ったことがあったら言え」

 

ぶっきらぼうな口調とは裏腹に彼の手はどこまでも優しく、僕はまた鼻の奥がツンとして泣きそうになってしまう。

ぎゅう、と白くなるほど拳を握りしめて、どうして僕にそこまでしてくれるのか訊ねると、空条は俺にもようわからんと理由にならない理由を答えた。

 

 

 

それから二週間ほど、僕は全く平和なごく普通の学校生活を送ることができた。

物がなくなることもなければ、誰かに殴られることもない。

拍子抜けするほど何もない毎日だった。

 

しかしそれは嵐の前の静けさに過ぎなかったのだ。

 

 

 

ある日、平和ボケした僕が男子トイレのドアを開けると、そこにはいじめの主犯たる女子生徒と、たしか柔道部の主将である屈強そうな男子生徒がいた。

やばい、と僕が踵を返そうとすると、ドアの前に誰かが立ち塞がっているのだろう、押しても引いても扉はびくとも動かなかった。

 

すぐに男が僕の背中に強烈な一撃を叩きこみ、僕は無様に床に這いつくばった。

男はガンガン蹴りを入れながら、おい花京院、と僕の名前を憎々しげに呟いた。

 

「3年の空条の制服なんか持ち出して、俺をびびらせようったって、そうはいかねえぜ」

 

陸で跳ねる魚のように、蹴られるたびにもがく僕が面白いらしい。

女子生徒も陰湿な笑みを浮かべながら、僕の背を踏みつけ、徐々にその細い脚に体重をかけた。

 

「いっつもすました顔して、気取ってんじゃねーよ」

 

女子だから体重が軽いと言っても、力を込めて背骨を踏まれるとかなりの痛みを伴った。

僕がうめき声を上げると、彼女は僕の脇腹を思い切り蹴とばし、僕の体を反転させた。

 

男が僕の髪を引っ張り上げ、噛みつくような近さに迫る。

 

「ざまあねえな、花京院」

 

大きなこぶしが僕の横っ面を殴り、重い打撃に眩暈がした。

ぼたぼたと鼻血が滴り、鉄の味が口内に広がる。

痛みでぼやけた視界の端で、女子生徒が僕のズボンをさげているのが見えた。

 

「あたしの告白を断るなんて、お前ホモなんでしょ?じゃあコレいらないよね」

 

彼女は汚いものを触るように、僕の性器を心底嫌そうに指でつまんで持ち上げると、その根元にカッターの刃をあてた。

素肌に感じる金属のひやりとした感触に僕は身震いした。

 

さすがにこれはまずい、僕の体からさっと血の気が引いた。

死ぬことはないかもしれないが、おそらく大量に血が出るだろうし、僕の人生に暗い影を落とすことは間違いない。

 

僕は文字通り死に物狂いで抵抗した。

手足をばたつかせ、プライドも何もかも捨てて叫んだ。

 

男が「うるせえ!」と再度僕の顔を殴り、女子生徒がいらついたようにポケットからハンカチをとりだすと、僕の口にむりやり押し込んだ。

 

「ん―――――!!!」

 

僕は必死に頭を振って、くぐもった悲鳴を上げた。

二人はにやにや笑いながら、ゆっくりとにぶく光る刃を滑らせた。

 

ぷつり、と皮膚が切れる痛みに僕がぎゅっと目をつぶったとき、轟音が響いた。

 

急に僕の体の上から重みが消え去り、それと同時に蛙のつぶれるような男の声が聞こえた。

僕がびっくりして目をあけると、トイレの個室に吹き飛んだ男の上に、男よりも大きな青い影が覆いかぶさっている。

ゴッゴッという鈍い音と共に鮮血があたりに飛び散り、影が容赦のない打撃を男に与えていた。

あまりの状況に脳が付いていかず、動けないでいると、血に混じって何かが僕の顔に飛んできた。

それは折れた歯のかけらだった。

 

「キャ――――!!!」

 

床に座り込んだ女子生徒が甲高い悲鳴をあげた。

とたん生温かい血のにおいがむわっと広がり、僕は倒れそうになった。

 

女子生徒は腰がくだけてしまったようで、青白い顔で小刻みに震えている。

なんとかズボンを直して影に駆けよると、それは半透明の青い巨人だった。

 

僕は戦慄した。

これは、まさか、そんなはずはない。

 

巨人に触れようとした僕の手は、その体をすり抜けて向こう側にいる見覚えのある学生服に触れた。

柔道部の男に覆いかぶさっているのは空条承太郎だった。

 

「承太郎!」

 

僕は震える声で彼の名前を呼んだが、青い巨人と承太郎の拳は止まらない。

彼の体の隙間から見える、糸の切れた人形のようにただ殴られるままになっている男は、白目をむいて口の端から泡を吹いている。

 

「承太郎!!」

 

僕は己の緑の分身を呼び出し、強く彼の名を呼んだ。

ハイエロファントグリーンの触手が青い巨人と空条の体を縛りあげる。

 

ぴたりと彼らの動きが止まり、驚きに満ちた目が僕を見つめた。

 

「花京院…」

 

そこからのことは夢中でよく覚えていない。

僕は空条の腕をひっぱり、とにかく脇目も振らずにトイレから逃げ出した。

ドアをあけるとそこにも累々と血まみれになった生徒が倒れていて、僕は悲鳴を上げた。

ハイエロを使って人のいない道を選び、息を切らしながら全速力で走り、僕は空条を連れてとにかく学校から離れた。

 

 

 

平日の昼間だからだろう、人のいない公園を見つけ、僕はそこにあったベンチに倒れ込むように座り込んだ。

荒い息をしながら隣にいる空条に視線をやると、彼の服は帰り血で真っ赤だった。

よく見ると彼の拳は皮がむけて、血がにじんでいる。

僕は呆然としている空条を水飲み場に連れて行って、その手を洗った。

 

ようやく、空条は現実に戻ってきたようで、か細い声で「花京院」と僕の名を呼んだ。

 

「悪い、怖がらせたな」

「いいえ、謝るのは僕の方です。僕のために、空条先輩がこんなふうになる必要なんてなかったんです」

 

傷ついた彼の手が痛々しく、包み込むように握ると、突然僕の体は空条に抱き寄せられていた。

彼の体にすっぽりと隠れてしまうように強く抱きしめられ、僕はあまりのことに声も出なかった。

 

「そんなふうに言うんじゃあねえ」

 

耳元に絞り出すような空条の声をふきこまれ、体がかっと熱くなる。

気恥かしくて、あの、と小さく声を出すと、空条が僕の顔をのぞきこんでくる。

緑の宝石のような瞳が、心配そうに僕を見つめてきて、僕の心臓が激しく鳴り響いた。

 

「腫れちまってる」

 

優しく彼の大きな手が僕の頬をなで、僕は思わずうつむいてしまう。

すると空条の手が僕の髪をかきわけ、額に柔らかく濡れた感触が降ってくる。

 

え、と顔を上げると空条が笑っている。

その笑顔は普段の彼から想像もつかないほど幼く、そしてそれゆえに美しかった。

 

「く、空条先輩…あの、今の」

 

もう一度、今度は僕にわからせるように唇にキスされて、僕は驚きのあまりにハイエロをだして空条を押しのけようとしたが、空条の背後から現れた青い巨人に阻まれてしまった。

 

「さっきみたいに名前で呼べよ」

 

承太郎ってよ、と熱っぽく囁かれ、僕は赤面した。

羞恥で動けない僕に、ほら、と彼がせっつくので、僕が消え入りそうな声で「承太郎」と呼ぶと、もう一度と彼はねだった。

 

「じょ、承太郎」

 

ぎゅうとハイエロごと抱きしめられて、僕は小さく悲鳴を上げた。

その悲鳴を封じるようにまた唇を奪われ、人がいないとはいえ公共の場で行われる行為に僕は焦った。

パニックになって承太郎の肩をバンバンと叩くと、ようやく彼が離れてくれる。

 

「ど、どうしてこんなことをするんですか」

 

となんとか聞くと、承太郎は急に真剣な顔になって僕に好きだと囁いた。

 

「この前は、ようわからんなんて言っちまったが、前からお前のことがなんでか気になっていた。だがお前が暴力を受けているところを見て、自分でもどうしようもないほど腹が立って、それでわかった」

 

承太郎は一呼吸置くと、しっかりと僕の目を見つめて言った。

 

「俺はてめーが好きだ。友達としてじゃあねえ、お前を俺のものにしてえ。そういうもっと汚くて、ドロドロした感情なんだ」

 

わかるか?と聞かれて僕はなんとか「はい」と答えた。

正直、彼みたいに強くて恰好よくて、しかもどこもかしこもきれいな男が、何のとりえもない僕をどうして好きになってくれたかよくわからなかったが、好きっていう気持ちは事故みたいなもので、僕たち人間にはどうしようもないんだろう。

 

「おめーはどうなんだ」

 

すがるように尋ねる彼に、僕は精一杯の勇気を振り絞って、「僕も」と答えた。

 

 

 

それから僕と承太郎は色んな話をした。

僕のハイエロのこと、承太郎のスタープラチナという青い巨人のこと、好きなもの、好きな歌手、それから話題は僕をいじめていた生徒の話になり、承太郎は思い切り憎々しげな顔をした。

 

「やられたままでいいのかよ」

「いいよ、君があれだけ殴ったんだから、もう十分だよ」

 

僕はいつのまにか承太郎に敬語を使わなくなっていた。

 

「おめーの気が済んでも、俺の気が済まねえ。大体あの女にはまだ何もしてねーじゃねえか」

 

承太郎は、とてもここに書き記すことができないような、おそろしい女子生徒への復讐の計画を口にした。

それは彼女の人生を大きく狂わせ、噂が広まれば、まずこの街にはいられなくなるような内容だった。

 

「やめてくれよ、承太郎。僕だって彼女がそんなことになったら、気が気じゃあないよ」

「…おめーがそういうなら、しょうがねえな。あんな奴らがおめーの心にこれ以上傷を残すのも嫌だしな」

 

承太郎はなんとか思いとどまったようだった。

 

 

 

しかし、それから1週間もしないうちに、僕をいじめていた主犯の女の子が学校から姿を消した。

僕がクラスメイトに理由を尋ねると、なんでも父親が急なリストラにあい、それが原因で両親が離婚し、彼女は母親の実家がある田舎へと引っ越したというのだ。

 

「その会社、なんていう名前かわかりますか」

 

僕はなんだか嫌な予感がした。

 

「会社まではちょっと…たしか車の名前みたいな感じの、横文字の会社だったわ」

「その会社に3年の空条先輩が関わっているということはありますか」

 

クラスメイトはわけがわからないという顔をした。

 

「それはないんじゃあないかしら。たしか外資系の、石油関係の会社だったから」

 

僕はその言葉を聞いて、ほっと胸をなでおろした。

 

あの事件の後、クラスからは僕をいじめていた生徒が全て消えていた。

承太郎に殴られた生徒はわかるが、急に階段から落ちて入院したり、家族でドライブ中に事故に遭ったり、果ては聞いたこともないような国に留学したり、とにかく理由に腑に落ちない点が多すぎて、僕は不安になっていた。

 

放課後、僕はいつものように承太郎と連れだって、近所の喫茶店へと寄り道した。

承太郎はコーヒーを飲みながら、僕が全然チェリータルトを食べていないのを見ると、眉をひそめた。

 

「腹でも痛えのか」

「いいや」

 

僕はちょっと間をおいてから、決心して承太郎に話しかけた。

 

「僕をいじめていた女の子が転校したんだ」

「そうか」

 

承太郎はまた一口コーヒーを飲んだ。

彼の様子はいつもと変わらない。

やっぱり僕の考えすぎなんだ。

 

僕は心の底から安堵して、彼に笑顔を見せた。

つられて笑う承太郎が愛しい。

 

「承太郎、僕のこと好き?」

「ああ、好きだぜ」

 

僕は承太郎の瞳が、一瞬獣のようにひらめいたのに気付かないふりをして、この上ない幸せを噛みしめたのだった。

 

おしまい

 

 

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